社会的分業、商品、価格、価値、そして貨幣
(1)社会的分業と商品取引
貨幣(=お金=money)は、社会的分業を前提とする。貨幣を理解するためには、社会的分業の説明からスタートしなければならない。社会的分業とは、たんなる分業(技術的分業)ではなく、個々の生産物が何らかの「見返り(return)」と引き換えに引き渡されることによって成立する分業のことである。一般に、モノやサービスが引き渡されるときに、必ずしも見返りが期待されているわけではない。その引き渡しにおいて見返りと引き換えになるときに、モノやサービスは商品となる。商品が見返りと引き換えに引き渡される場所は、商品市場である。したがって、社会的分業がなければ、商品は存在しないし、商品市場も成立しない。一般に「経済(economy)」という用語は、「社会的分業のもとでの商品または貨幣の取引」に限定した人間の活動を表現するものである。そして、貨幣は、経済において最も基礎的な役割を担うものであり、経済学における最も根源的な概念である。
分業とは、手分けをして仕事をすることである。たとえば、瓶詰りんごジュースを作るときに、果汁製造と瓶詰を別々の人間が担当すれば分業にあたる。ただし、これを一つの経営体のなかで行うのであれば、これは技術的分業であり、社会的分業ではない。このとき、製造された果汁が果汁製造担当者から瓶詰担当者に引き渡されたとしても、その見返りが必要となるわけではない。したがって、それは商品取引く、貨幣が発生するための前提条件にはならない。これにたいして、瓶詰りんごジュースを作るにあたって、ひとつの経営体(果汁生産者)が果汁を製造し、それとは別の経営体(瓶詰業者)がその果汁を入手して瓶詰を行う場合、それは社会的分業である。このとき、りんご果汁が果汁生産者から瓶詰業者に引き渡されるが、それは何らかの見返りを必要とするものであり、したかって、それは商品の取引にあたるのであるから、貨幣が発生するための前提条件となる。
(2)物品による見積もり、値付け
社会的分業のもとでの商品の引き渡しには、相応の見返りが必要である。そして、その見返りの内容または分量は、何らかのかたちで見積もられ、それについて双方の合意がなされる必要がある。その見返りは、ただちに実行されることもあれば、時間が経過したのちに実行されることもある。もし見返りがただちに実行されないとすれば、そのときは、果汁生産者は瓶詰業者に「1リットルのりんご果汁を与えた」という記録が残る。ただし、この場合の数値(1リットル)は、のちの見返りの内容または分量を表すものではない。なぜなら、社会的分業のもとでの交易は、他者に引き渡す目的で生産されたものを引き渡すのであるから、その見返りが同じであれば、社会的分業の意味をなさないからである。したがって、商品の見返りは、即時払いであっても、後払いであっても、売り渡した商品とは別種のものとなる。そして、引き渡した商品と別種の物品をその見返りとして返すことは、引き渡された商品に「値付けをする行為」にほかならない。別種の商品であることによって初めて、引き渡された商品の値を推し量ることが可能となる。たとえば、りんご果汁でりんご果汁の値を推し量ることは不可能であるが、米でりんご果汁の値を推し量ることは可能である。もし、「1リットルのりんご果汁の見返りは5合の米である」というならば、一定量のりんご果汁にたいする値付けが、米という有用物の数量によって行われたのである。
値付けとは、価格の設定である。価格は、値付けに使用される物品の分量によって表される。たとえば、「1リットルのりんご果汁の見返りは5合の米である」というのは、米という物品による価格の表現である。見返りにおける値付けに際しては、果汁生産者(売り手)と瓶詰業者(買い手)との交渉が存在し、その結果としてりんご果汁の見返りの量が決定される。その交渉の場において、売り手と買い手の異なる基準が対置される。売り手の基準は「生産費」であり、買い手の基準は「商品が買い手にもたらす価値」である。「生産費」とは、原材料費、生産手段費(一般には減価償却費)、労役費(人件費)の合計である。「商品が買い手にもたらす価値」とは、買い手が商品の有用性を認識する程度のことである。市場での商取引においては、売り手の売りたい要望と買い手の買いたい要望が両者を結び付けてるが、売り手と買い手の基準と論理が異なっているために、双方の基準と論理を離れた客観的な数値において折り合いをつけることがもとめられる。その際に、「生産費」が「商品が買い手にもたらす価値」より大きい場合は、その商品取引は成立しない。「生産費」が「商品が買い手にもたらす価値」より小さい場合に、その両者の数値のあいだのどこかに価格が設定される。そして、売り手の生産費を越えた部分は、売り手の利益となる。これは、よく言われるような「りんご果汁と米との等価交換」ではない。なぜなら、ここで問題になっているのは、りんご果汁の生産費とそれが買い手にもたらす価値のみであり、米の生産費と価値は問題になっていないからである。
(3)物品の価値の主観性と交易の成立
価値とは、ある物品が人間の欲求や関心を満たす性質を意味する。それは、人間にとって役に立つ性向(有用性)といってもよい。人間の欲求や関心は、人それぞれに千差万別である。したがって、価値という言葉は、本来の意味において主観的なものである。ある特定の物品に対して、すべての人間に共通の客観的な価値を定めることはできない。ある物品にたいして有用性を見出さない者にとっては、その物品は無価値なものとして認識される。例えば、視力の弱い者は眼鏡にたいして大きな価値を見出すが、正常な視力を持つ者はそれにたいして価値を見出すことが難しい。あるいは、瓶詰業者にとってりんご果汁は、瓶詰りんごジュースの内容物としての有用性をもっているが、ある者にとってりんご果汁はそのままで飲料としての有用性をもつかもしれないし、ほかのある者にとっては実験材料としての有用性をもつかもしれない。また、ある物品にたいして同様の有用性認める人々のあいだでも、同じ程度の価値の度合いが共有されるとはかぎらない。たとえば、同じ水であっても、朝から潤沢に水を飲んでいる者と一滴の水も飲んでいない者とでは、そのありがたみ(価値)がまるで異なる。つまり、同じ品物から受け取る価値は、それを受け取る側の属性によって、その内容も大きさも異なる。だから、特定の物品にたいして、だれもが認める客観的な価値を定めることは不可能である。
商品市場には、売り手と買い手が登場する。売り手は、みずから市場に持ち込んだ商品にたいして価値を見出すことができない。なぜなら、その商品はみずから使用するためのものではなく、ほかのだれかに売るためのものだからである。買い手は、みずから価値があると認めることのできる商品をみいだすために市場に現れる。そして、目的の商品を見つけたときに、買い手としてその商品を受け取って、売り手にその見返りをあたえる。つまり、少ない価値を見出すものからより多くの価値を見出すものへの単独の引き渡しが行われ、その見返りが反対給付としておこなわれる。その見返りの品は、引き渡された商品の価値を計測する役割を果たすものであり、引き渡しの対価ではない。つまり、それは物々交換ではない。もし市場において、偶然にも商品のバーター取引が成立したとしても、商品に固有の客観的な価値が存在しないとしれば、それは客観的な価値が等しい商品同士の交換を意味しない。それは、ある商品が、それに対して少ない価値を見出すものから、より多くの価値を見出すものへと引き渡され、同時にもう一つの商品もまた、同様の理由から反対方向に引き渡されたのである。そのときに双方の見返りは省略することができる。これは、よくいわれる「欲望の二重の一致」が、たまたま引き起こされた例であるが、それはまれにしか起こらない。通常の商取引においては、その片方のプロセスだけが引き起こされる。その場合は、受け取る側の見出した価値量と引き渡す側の費用のあいだで取り決められる価格を何らかの形で表す用具(値付け用具)としての貨幣が必要となる。
(4)値付け物品の固定化=貨幣の誕生
りんご果汁の値付けに使用される物品は、ここでは米を引き合いに出したが、必ずしも米である必要はない。5合の米の代わりにボールペン50本でもかまわない。しかし、その値付け要具は、何らかの事情によって特定の有用物に固定化される。その固定化された特定の素材が貨幣素材となる。歴史的にみると、その特定の有用物は、金銀などの貴金属となることが多い。そして、その固定化にあたっては、金銀などの貴金属に固有の性質(希少性、均質性、耐久性など)が影響する。なぜなら、貨幣素材には、運搬のしやすさ、分割の自由度、保管のしやすさなどが求められるからである。ただし、そのとき貨幣素材に求められるものは、生産や生活のための実用的な有用性ではなく、交換用具としての有用性である。たとえば、貴金属が貨幣素材として選定されるときは、その固有の性質(希少性、均質性、耐久性など)が、装飾品の原料としての有用性をもつからではなく、交換用具としての有用性をもつからである。すなわち、りんご果汁の代わりに金銀を受け取るものは、それによって装飾具を作るためではなく、それと引き換えにほかの何かを手に入れることができるからである。
商品を提供するものが、それと引き換えに貨幣を受け取るのは、貨幣に実用的な有用性があるからはなく、したがって、それに商品と同等の価値があるからでもない。また、貨幣が商品の値付けをするための道具であるからでもない。商品提供者が貨幣を受け取るのは、同じ経済圏のだれもがそれを交換用具であると認めているからである。不特定多数の者が商品と引き換えに貨幣を受け取ることが確信できるときに、商品提供者はそれと引き換えに貨幣を受け取ることができる。そして、特定の素材をだれもが交換用具であると認めるためには、それが交換用具としての有用性をもつだけでは不十分である。なぜなら、交換用具としての有用性をもつ可能性のある素材は、世の中に多数存在しており、そのうちのどれが交換用具となるかは、その素材の特性からおのずと決まるわけではないからである。そのには、素材の自然的な特性をこえた社会的な要因が加味されざるをえない。すなわち、特定の素材を貨幣素材に選定は、商圏(経済圏)のなかでの合意にほかならない。商圏内の合意となった交換用具は、その構成員によって購買力を体現する素材として認識される。そして、購買力を体現する貨幣素材は、富の一形態とみなされる。
(5)法定通貨と表徴貨幣
貨幣は、理論上では、合意(取り決め)の及ぶ範囲に成立しうる。地域通貨は特定の地域内の合意に基づいて特定の地域内に流通する貨幣であり、コミュニティ通貨は特定のコミュニティ内の合意に基づいて特定のコミュニティ内に流通する貨幣であ。そして、その合意は発行者体にたいする信頼または発行者体の強制力を背景として形成される。したがって、そこには、発行主体の威信または統治力が大きく作用する。今日の世界は、国家によって分割統治されている。ゆえに、商圏(経済圏)もまた、基本的に国家ごとに成立する。国家における強制力または合意(取り決め)は、法治国家においては法律として現われる。ゆえに、今日の貨幣は、基本的に法定通貨である。ちなみに、通貨(currency)とは、特定の経済圏に流通する貨幣を意味する言葉であり、国家を基本的な経済圏とする今日においては、主として国家が素材と単位を定める法定通貨である。国家は、世界のなかの一つの地域をなしている。その意味において、国家の法定通貨は、一種の地域通貨ともいいうる。国際的な合意が形成しうるのであれば、世界共通の貨幣も成立しうる。
貨幣が合意(取り決め)に基づくものであるならば、貨幣素材の生産・生活のための有用性は、あってもなくてもよいものとなる。合意(取り決め)によって定められる素材は、たとえ金銀であっても、装飾品の原料としての有用性のために選定されるのではない。したがって、貨幣は、素材の商品としての性格が排除されたトークン(token)または表徴(symbol)であり、プラトンの言葉を借りれば「交換のしるし」である。1ポンドの重量をもつ金は、1ポンドという単位をもつ貨幣となり、その素材は金である必要はなくなる。それは、金属、紙、電子媒体のいずれでも差し支えない。1ポンド(または1円)という単位と数値が貨幣の実態となり、その素材は貨幣の移動手段となる。貨幣とは、単なる数値と単位ではなく、それが移動手段と結びついたものである。数値と単位は観念であるがゆえに、移動手段という物質的な表現を必要とする。
(6)貨幣の永続性と富の蓄積
貨幣は、素材という物質的な形態をもっているがゆえに、蓄蔵の対象となり、貨幣のもつ購買力が未来へと繰り延べられる。もし、貨幣が単に観念的な存在(数値と単位)であるとすれば、貨幣は客観的な蓄蔵というかたちをとりえない。なぜなら、観念的な数値は、各人の記憶のなかに主観的に存在するだけだからである。たとえ電子媒体または紙媒体への記録というかたちであったとしても、移動手段(素材)という物質的な表現をともなうことによって、貨幣ははじめて蓄蔵が可能となり、時空を超えた持続性(永久性)を獲得する。紙や金属などの貨幣素材は長期間に渡れば損傷や摩耗を免れないが、造幣による差し替えによって持続性(永久性)が保持される。。
市場経済社会(交換経済社会)においては、生産物は自家消費のためではなく、主に市場における交換のために生産されて、商品となる。そして、商品の生産は、世の中の他者の購買力に見合ったものにならざるをえない。なぜなら、購買力を超えて生産された商品は、在庫または廃棄の対象となるからである。そして、購買力は、商品にたいする需要と必ずしも一致しない。なぜなら、貨幣が介在する交換経済においては、貨幣量が購買力を表しているからである。したがって、需要に見合った貨幣量が用意されていなければ、需要が購買力(有効需要)となって現れず、潜在的な生産力の実現が妨げられる。ただし、貨幣が過剰に蓄積される場合であっても、蓄積された貨幣が偏在することによって、十分に購買力が形成されないこともありうる。いずれにせよ、流通貨幣量は、潜在的な生産力を阻害しない程度に購買力を形成するものでなければならない。ただし、潜在的な生産力を越えて貨幣が供給されたり、人間の欲望を越えて貨幣が供給される場合は、貨幣が過剰となって蓄蔵される。
無形の商品(サービス)は引き渡しと同時に消滅し、有形の商品(財)もまたいずれは物質的に朽ち果てる。しかし、数値を乗せた貨幣素材は、その耐久性と永続的な数値情報を合体させることによって蓄積可能なな購買力となる。したがって、人々は、生存のために必要な財・サービスを商品として獲得したあとは、商品を貨幣に代えてもとうとする。こうして、貨幣は、蓄積される購買力として、富の最も洗練された形態と誤認される。しかし、貨幣とは、実のところ、観念的な数値と単位を耐久性のある素材に乗せた交換用具にほかならない。その素材が永遠に持続可能な電子媒体であったとしても、技術的な有用性がなく、実用的な価値をもたない。貨幣の交換用具としての機能は、人々の合意(取り決め)にもとづく。したがって、貨幣として蓄積された富は、合意(取り決め)の変更または崩壊によって無に帰すこともありうる危うい存在である。